お母様方の育児の傾向はこのところ、過干渉か放置かに二極化しているように感じます。
なぜそう両極端になってしまうのかというと、主語が子供ではないから、自分だからではないでしょうか。母親である「私」が「干渉したい」「言わずにはいられない」、あるいは「放っておきたい」「面倒くさい」から。意志があってしている、と言うけれども、結局、自分の中にある不足感や、他に関心が向けられていることが理由なのでは、と言いたくなることが多いのです。
私たち世代は、少なからず根本的にねじれとか歪み・不足を持ったまま大人になっていて、未熟なまま親になっている人は多いと思います。そして無意識に、自分の不足をそのままこどもに押し付けているケースも多いのだと思う。でも自分の親に対して批判はするけれども、じゃあどうすれば良かったのか、という答えを見つけるのは難しい。そうすると、批判しつつ同じことをするか、正反対の育て方をするか。もしくは、自分なりの道を見つけて手探りで進んで行くか。この3通りしかないのだと思います。
私は、自分なりに手探りでがんばっているお母さんを応援してあげたい。この子をより良く育てたいのに、どう育てれば良いのか分からない、それはまさに暗闇で放り出されたような、つらい状況です。でもわずかなヒントでも、前方の光のように見えていると、とりあえずそこに向かって進んでいける。
小手先の育て方、情報だけなら巷にはあふれています。でもそこから選びとっていくためには、選ぶ基準がまず分からなければいけない。妊娠時、0歳児、1歳児をどう過ごすのか、どんな場面でどう振る舞えば良いのか、その基準となる育児の骨格が分からなければ、信念を持って子育てしていくことはできません。「私はこう育てたい。」という光があればこそ、「だから今この目の前のことに対しては、こうする。」という自分なりの育児の道が出来ていくのだと思います。
昔のお母さんだって、一人目だけではわからない事が多かっただろうと思います。何人も産んで初めて、それぞれの子が違うという事も分かるし、経験から学ぶことも多かったでしょう。過干渉なんて、子供の数が多い時代には無かった言葉。でも、一人でも五人でも、愛は変わらない。動機としては「子供への愛」という大きなモチベーションがあって、だから「自立させたい」と最終的には思うはずなのです。
子供を授かったとき、私が一番わからなかったのは、目に見えないものをどうやって育てればよいのか、ということでした。目に見えるもの(体や、数字で表れてくるもの)を育てるのも大事だけれども、目に見えないもの(心)を育てることこそ、実は親の仕事なのだと思います。私は「心育」という言葉で呼んでいますが、このことに対して少なくとも自分なりの関心を持って子供を育てて行くと、お母さんも人間として成長するし、子供もその志を感じて育つ子になる。
暗闇で手探りしているお母さんにとって少しでもヒントになることを伝えたい、という気持ちは、私の中でずっと前から暖めてきたことです。ただ道しるべのようにそこに立っていて、迷っているお母さんに向けてヒントをつぶやき続けること。これはきっと絶対仕事にはなり得ないことだと思うのですが、私のライフワークとして続けたいと思っています。
2007/Apr 志村双葉
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