「コミュニケーション」という言葉に当たる日本語ってなんだろう?と、よく考えます。ただの「情報伝達」だけでは、この言葉の意味は表現しきれないと思います。そこに意味されていることは、「今目の前にある『事』-----仕事だったり学校のPTAだったり---- を、うまく進めていくことができる力」ではないでしょうか。
「コミュニケーション力」の要素として「気が付く」ということを、よく申し上げています。 自分の行動の足りないところに「気が付く」、相手の置かれている状況に「気が付く」というのは、いわゆる「コミュニケーション力」の基本とも言える部分でしょう。
「気が付く」「気が利く」は、昔からずっと日本で使われてきた言葉でありながら、その大切さを振り返る人は少ないように思います。 「気が付く」きっかけは、何でも良いのです。問題が起きてから振り返って気が付くのでも構わない。組織的に教育や研修という形で、気付くための訓練を行っても良いでしょう。
プラズ・マの研修プログラムでは、「『仕事ができる』とは」の一番目に「気が付くこと」という項目を入れています。今は、学校でも家庭でもこのことを教えられずに過ごし、企業に入ってから最初にまずこのことを教えなければ仕事が始められない人が増えていると実感しています。
今は学校では、先生は生徒に敬語を使わないし、生徒も先生に敬語を使わないようですが、敬語は相手に気を使うことによって生まれた言葉です。「相手を立てたい」という気持ちが、「尊敬語」「謙譲語」を生む動機として現にあったからこそです。英語で「you」に当たる言葉が日本語ではこんなにバリエーションに富んでいるのも、その一言で相手の立場への「気付き」「気配り」がなされていることを表現できる、日本の「気付き」文化の一つであると思います。お互いの立場に関係なく対等の言葉を使うのが、親しみを込めている表れだと考える向きもあるでしょう。でも社会に出るまでの間、ずっとその平坦な言語環境の中にいると、本来言葉に込めるべき「気付き」が出来ないまま大人になり、立場を考えない言葉を発しても気付かない、相手を傷つける発言をしても気付かない、ということになってしまいます。
例えば、初対面の相手に対峙した時、分かっているお互いのステータスはさておき、やはり敬語を使うべきです。なぜならそこには、「まだ何もあなたのことを存じ上げていません」「これからあなたのことを教えていただきたい」という謙虚な気持ちがあるはずだから。
年齢の上下と仕事上の上下関係が逆になっている場合も、この気持ちを持っている人とそうでない人の差が顕著に表れます。確かに仕事を受ける人間は、例え自分が年配であっても、敬語を使い相手を立てるでしょう。では年下で仕事を発注する側はそれに甘んじていて良いのでしょうか?仕事という土俵では自分が上に立っていても、人として、一日の長のある相手の人生を軽んじるような言葉遣いはするべきではありません。
これらは本来、やはり家庭で身に付けるべき感覚なのです。親が「気を使う」という行動を身をもって示さない限り、子供には伝わらないでしょう(言葉で教えたことよりも、体で行動して見せたことの方が、子供はしっかり覚えてしまうもの)。また、すぐに結果が出てくるものでもないのです。長い時間を経て、子供が大人になった時、気が付いたら親と同じように行動してしまう、その時に表に出てくることだと思います。
「気を使う」「思いやる」という日本のすばらしい文化は、こうして脈々と家庭で受け継がれてきたはずです。でも英語圏の言葉の流入や、「自分」中心の価値観を受け入れてきたことによって、崩壊しつつある。外来語である「コミュニケーション」を、本来昔から日本にあったはずの「気が付く」という言葉に置き換えてみれば、家庭での躾のあり方や、学校・社会での教育に欠けている点などが、自然と見えてきます。
2006/Sep 志村双葉
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